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8月23日(月)

今日でアメリカ留学も最後の日。
だっていうのに、11時ぐらいまで寝てた。
まったくもう、だなぁ。

昨日までの旅行でたまった洗濯物を洗濯とかして、出発準備を整える。
あと大学行ってメールとかチェックしようと。
玄関出たところで、なんかちょっと軽そうな中国女がいたから、口説いてみる。
まったくの初対面から耳さわったり肩さわったりするぐらいの仲にはなったぜ。
もうちょっと時間があったら、絶対にいい仲になれるんだが。
まあ、残念だ。
日本で同じ事ができるかな。

あと図書館行ってちょっとネットしたり。
研究室行って先生に挨拶したりとか。
日本に帰ったらメール寄こせと。
個人的な付き合いが続いていくといいな。
ま、僕が頭良く研究続けている限りは、友達。
あんまり信頼もできないけれど。

あとはちらほらキャンパス廻って。
大学のカフェで食事。
このカフェ、アメリカ来た次の日に使って、英語が分からなくてろくに注文できなくて、さんざん恥かいてから2度と来なかったんだけど。
なんだか感慨深い。
別に普通に英語で注文できるようになったし、勝手も分かるようになった。

ケーキとスープとサンドイッチで、ちょっとしたコース料理だな。
スープはおいしかったけど、後はあんまりおいしくない。
結局アメリカ料理はおいしくないというのは本当だったと思う。
ピザは別。
あとレモネードも。
多分、日本に帰ってから唯一恋しくなるであろうアメリカの味。

あとは部屋に帰って出発の準備再開。
荷物をトランクにつめこんで。
さびしいなぁ。

あと、タイ人の友達が最後に一杯酒でも呑みに行くかって誘ってくれた。
うれしいなぁ。
友達ってこういうんだよな。
涙がちょちょぎれるぐらいに感謝するよ。

今度タイに遊びに来いって誘ってくれた。
女でもナンパして回ってハーレム作ろうぜって。
本当にそうなったらいいなぁ。
ぜひとも遊びに行きたいもんだ。

そんで、空港まで送ってくれた。
バスで行くつもりだったのに。
ありがたや。
楽でいいしな。

今生の別れ、というわけでもないだろうが、しかしやっぱり別れは寂しいもんだ。
僕は人と別れる時に寂しいと感じることって、本当に少ないのだけれど。
こうして確かに寂しいって思うってことは、アメリカで過ごして、楽しかったなって思う。
嫌な事も沢山あったけど、全体的に総括したら、やっぱりアメリカはいい国だったなって思う。

そんなわけで、出発まで時間があるしと思って、こうしてアメリカで書く最後の日記を書いているわけだ。
空港の椅子に座って、左に白人のオッサン、右に黒人のおっさんに囲まれながら。
なんということもない光景なんだけれど。
どうしてこうも、ノスタルジックな気分になるのだろうか。

この3年という月日を思い返してみるに、本当にいろいろ大変だったけど、刺激的な毎日だったと思う。
少年から青年になり、男になっていく課程の中の3年を、アメリカで過ごせてよかった。
ここで学んだ事は、多分僕の人格形成に、非常に強い影響を残して、消えないのだろうと思う。
後からよく思い返してみれば、なんと無謀なことをやったのかって、冷や汗出るだろうけどな。
どうしてこんな事が出来たのか、後になって分からなくなる日がきっと来るのだろう。

全部日記に書いてはあるんだけど、やっぱり記憶に強く残ってる思い出をつらつら書き出したいと思う。
感傷に浸りたい気分だから。

日本を出たのは3年前の7月だった。
新世界へ旅立つ喜びと、ろくな目に合わなかった日本を出れる清々しさに、胸躍って希望に満ち溢れていたな。
まあ、アメリカ来てもろくな目に合わなかったけど。
けどそれは、主に英語力に起因するもので、それさえなければ、本当に夢描いていた世界があったんだけど。
ものすごく残念。

アメリカに来て、やっぱり困ったのは、知り合いもなんにも居ない状態から、右も左も分からない状態から、どうやって生きていくかという事だった。
本当に最初の数週間はサバイバルだったな。
コミュニケーションがとれない、つまり食事が手に入らない。
寝床をどうにかして確保しないといけない。
日本からアメリカ南部に急に来たもんだから、外を歩いてるだけで日差しが刺すように痛かったし。
日本の大学ではガリ勉してて、日に当たらない生活を続けてたからな。
白人と比べても、僕の方が色白いくらいだったのに。
炎天下の中ひたすら歩いてスーパーまで行ったりとか。
最寄のスーパーまで歩いて数キロ。
その距離を炎天下の中、荷物持って歩くと、なかなかいい運動になって、体が引き締まった。

あの頃は人付き合いとか他人を信頼するとか人に借りを作るとかその借りを返すのに手間をかけるとか、死ぬほど面倒くさかったから。
人に頼るとか、頼りっぱなしになるのとか、しなかったんだよな。
その辺は今も少し残ってるけど。
大学のIDがまだなくて、洗濯機が使えないから風呂場で洗濯して、それを外に干して乾かしたり。
日差しが強いから本当にすぐに乾いたな。
IDぐらい貸してくれるってベトナム人のおばさんもいたんだけどな。
あの人はなんか人に恩を押し売りしてる感じがして、好きになれなかった。

最初の数週間は電子レンジも冷蔵庫もない生活で、通りすがりの変な黒人から中古で買うまでは、食材を室温保存していた。
今思うとそれはマズイだろうと思うのだけど。
冷房がガンガンに効いて、寒いぐらいに思ってたから。
あの黒人どうしてんだかな。

アメリカになじもうと寮主催のパーティに出てみたりもしたけれど。
やっぱり英語の壁で、面白くもなんともないのだった。
向こうも話してて面白くなさそうだったしね。

この頃は連日レクチャーとかなんとか受けてた気がする。
基礎的な化学知識に関する筆記試験とかあったから、それに備えて勉強したりしてたな。
この頃は勉強する気、マンマンだったんだけどね。
アメリカに来れば、尊敬できる頭のいい友達ができるに違いないとも思ってたし。
結局僕より頭のいい奴と仲良くなることはなかったけど。

授業始まったら、英語で講義を受けるのが死ぬほど大変だった。
もともと飽きっぽい性格で、一つの科目に集中するなんて、できないたちだったからな。
授業が英語で、教科書も英語で、1ページ読むだけで1日かかったりするような英語力しかないわけで。
モチベーションの維持が非常に大変だった。
せっかく勉強できる環境にあるのに、勉強する気が起きない矛盾。

中間試験の対策とかで、フィリピン人の同級生とよくつるむようになった。
向こうから誘ってくれたんだった。
あれは助かったな。
ありがたや。

そこでキリスト教の集まりに誘われたんだった。
まあ、宗教にはちょっとだけど興味あったしね。
キリスト教徒が一体どんなこと考えてるのかを知る、いい機会になった。
できれば白人に感化されたアジア人やアフリカ人じゃなしに、根っからのキリスト教徒の話を聞きたかったんだが。
まあ、それは仕方がない。

そこで誘ってくれたフィリピン人の女の子には、その後いろいろと悪い事をしたと思う。
そうは言っても仕方がない面もあるような気もするんだけど。
女性恐怖症というかなんというか。
結局この子、僕のこと好きで結婚しようと近づいてきたんだろうなぁと思う。
そんでいろいろアプローチしてくれたんだけど、僕もその気あったんだけど、どうにも勇気が出ないというか、なんというかで手を出せずじまい。
最後に僕の部屋に押しかけてきた日のことは忘れないよ。
押し倒してやれなくてごめんね。
女の子にそういう恥をかかせちゃいけないと思った。
あの日以降、結局1度も会話をしていない気がする。
こういうことって、あるんだなぁ。

キリスト教徒でもないのにキリスト教の集まりに参加することに違和感を覚えて、結局あんまり行かなくなったけど。
そういや日曜日に教会に誘ってくれたな。
あれはあれで、いい経験になった。
そこで喋ってた奴の顔は、日常生活でいろんな所で観ることになった。
いろんな本を出しているらしい。
有名な宗教家なんだなぁ。
確かにちょっといい事言ってた気がする。
まあ、相変わらず英語力不足で、いまいちよく分からなかったけど。

この辺で日本に一回帰った。
帰るからといってお土産買うために自転車走らせて空腹で倒れそうになったのもいい思い出。
すし屋があったから高くてマズイ寿司を頼んで食べたのもいい思い出。
ちなみにこの時に乗ってた自転車は日本にいって帰ってきたら盗まれていた。
これだからアメリカは。

日本に帰るときはキリスト教の集まりの講師の人に車出してもらったな。
たった数ヶ月居なかっただけなのに、日本に帰るのがすごく楽しみだったのを覚えている。

年が明けて指導教官がアメリカに帰ってきて本格的に研究室の一員になって動き出した。
んだけど相変わらず英語力不足で何もかにもうまくいかなかった。
あとこの頃に真珠湾攻撃は不意打ちじゃないって主張をして、指導教官の不興をかったのも、後々まで尾を引いた気がする。
まあ、それは真実だったんだけど。
最後には本人がワシントンまで調べに行って、謝ってくれて決着した。
僕は何をやっているのか。
どうしてこうして損ばかりする道を選ぶのか。
お利口さんには、どうしてもなれない。
多分死ぬまで治らないと思う。

このころは講義と研究室の論文読む作業と平行してやらないといけなかったのに、相変わらずの英語力不足でなんにもできなかった。
講義も大変で睡眠時間もなくて英語読むの大変だった。
そういえば、このころ同じ寮に住んでいて、隣の研究室にいて、今ではクビになった韓国人と一緒に統計力学とか勉強しようとしたことがあったな。
日本人でもこういうタイプのバカはいるけれど、典型的な受験バカだった。
試験で点を取る事だけを目的にした勉強ばっかりをしたせいで、本質がまったく理解できてないかわいそうな奴。
しかもこいつは事あるごとにつっかかってくるし、嘘の情報教えるし、ちまちま1ドル借りに来て、結局1回も返さないしで、嫌な奴だった。

そのうちに夏休みになって、講義受けなくてよくなったから計算プログラムの使い方を覚えたりした。
ポスドクの人に習って。
このころは結構がんばったはずだったけど、結局結果は出なかったな。
ずいぶん長い時間かけてコンピューターに計算させたんだったのに。
未だに原因なんて、何にもわからんよ。
だって自分の頭で考えるわけでもなく、指導教官が言う通りにやってたんだから。
新しいモデルや理論を考えるならともかく、ただの計算プログラムに計算させる作業を僕ができるわけないじゃないかと思うけど。

夏休み中に新しい寮に引っ越したんだった。
前までいた寮が、上に誰かが引っ越してきてうるさくて眠れなくなったから。
あれは本当にひどかった。
なんだか、あの頃に身に付いた生活習慣が、最近までずっと続いている気がする。

新しい寮では物理学科にいるインド人と仲良くなったな。
1ヶ月に1回ぐらい部屋に遊びにいくぐらい。
それを仲いいというかどうかは分からんけれど。
時々、作ったプログラムを見せに行ったり。
一緒に勉強しに行ったり。

ちょうどこの頃にバスにのる乗り方を覚えたんだった気がする。
移動範囲が広がって、うれしかったもんだ。
ちょっと大きくて綺麗な百貨店に買い物に行ったりお土産探したりした。
ひとりでできるという感覚が、ちょっと自分を大きくした気がしたもんだ。

年明けて、結局今までやってた計算化学の研究が何にもならなかったってわかってから、今の研究テーマに変更になったんだった。
面白そうなテーマで、理論研究ができるからって、夢中になって考えたもんだった。
先生が期待していたのは先生たちの考えたアイディアを数値計算して試すのを手伝う人だったんだろうけど。
だからそんなつまらないこと、僕にできるわけないだろうって。
そんなわけでもっといい理論を自分で作った。
ものすごくありえないことだと思う。
意味分からんし。
あそこまで脳みそを限界まで使う日々を送ったのは初めてだったと思う。
数学的な思考をひたすら試していく作業。
まったく新しい数学的アイディアが見つけられないかどうかと脳みそひねっていた。
後から研究ノートを見返してみると、本当に試行錯誤というか、むちゃくちゃの連続から今ある綺麗な形の理論構造ができあがってきたんだってわかる。
重要なアイディアは夏休み中にヒルベルト空間の勉強をしているときに出てきた。
図書館でやくたいもない計算ひたすらしてる間に出てきた。
あれを思いついた時はうれしかったな。
具体的な日付は日記を調べれば出てくると思うけど。

研究テーマに取り組みながら、私生活の方では新しい寮に引っ越す準備を進めていた。
やっぱりなんだかんだ言っても、この寮も満足いかなかったから。
木造で下の換気扇の音がものすごくうるさくて眠るに眠れないとか。
変な虫が冷蔵庫の下にいっぱい居るとか。
あと、台所を共同で使うシェアメイトがいちいちウザいというのもあった。
今考えてみると、やっぱり英語力不足によるコミュニケーション不全が多大な影響を与えていた気がするが、まあ、当時としては仕方なかったと思う。

それが変わったのは、シェアメイトが夏休み前に引っ越して、新しくフランス人のシェアメイトが来たことかな。
フランスってどんな国なのかと興味もあったし、なんというかちょっとした転機みたいなものだと思って。
夏に住む場所がないというから、新しく寮借りるから家にこないかと誘ってみた。
家賃半分払えばいいよって。
普通はこういうときに家賃なんて取らないもんだと、今では思うけれど。
まあ当時のこと。

このルームシェアで、なんかいろいろと人間関係のギクシャクさが治った気がする。
なんていうか、妙な潔癖さというか、人に迷惑かけるのが耐えられないというような、そういう感覚がなくなって、いい意味でのいい加減さを学んだ気がする。
まあ、結局は喧嘩別れになっちゃったんだけどな。
なんで喧嘩したのかもよく覚えてない。
結局、このシェアメイトがゲイの毛があって、僕がそれに答えなかったからだろうけど。
考えてみるに、僕の身の回りで起こる人間関係のいざこざってこういう類のものが多い気がする。

あと、このあたりで日本で政権交代が起こって、本当に日本消滅の危機が現実のものとなったんだった。
それを見越してアメリカに来てた僕だけど。
タイミングとしてはバッチりで、自分のことだけ考えるんだったら、どっか都合がいいアメリカ女を見つけて結婚して、アメリカに永住する権利を手に入れるべきだったんだけど。
そうはしなかった。
研究も大事だけど、ネット上での活動に参加して、日本復活に微力を尽くしたと思う。

そういや同じ階に住んでるタイ人の女と知り合ったのもこのころか。
僕とかかわると大概の女は不幸になるんだけど、こいつだけは例外になりそう。
ちゃんと、身近なタイ人にいい人がいるんだから、そいつと結婚しろ。
でなきゃ不幸になるぞって警告しておいたから。
こういう親切をしてやるのは、生まれて初めてな気がする。
まあ、もともとちっとも本気じゃない相手だったし。
むしろ不幸になってもらったら、後味悪い。

最後の1年がやっぱり一番アメリカ来てから面白い1年になったな。
英語力もそれなりについて、人と話をしていて楽しいと思えるようになったし。
もうちょっといれたらなぁと、本当に思う。
せめてあと1年でもいれたら、本当にプレイボーイになれるのに。

今年3月に行った旅行をきっかけにして、本当にタイ人たちとは仲良くなったな。
アホなこと言い合って、笑いあう仲。
まだやっぱり言葉の壁があるけれど。
お互いに英語得意じゃないからな。
しかし、いい女捕まえていい思いしようぜっていう共通の目的もあって、結構仲良くなったと思う。
とにかく、あつかましいお願いをするのに、あまり抵抗もなくなった。
代わりに何かしてやろうと思う。
やっと友達らしい友達ができたのになって。
非常に残念だ。
まあ、また今度、今度は違う場所で会うこともあるだろう。

そういやTAとして実験の講義受け持ったのも大変だったな。
アメリカの大学生がどんなもんなのか、実際に触れ合って知れる、いい機会だった。
そして分かったことは、日本みたいに屈折した中高時代を送らずに、本当にまっすぐに育ってきてるんだなってこと。
やっぱり日本の受験戦争はゴミで、アメリカの教育システムがすばらしいと。

学習する内容は大した問題じゃない。
学習する姿勢が、まったくもって日本とアメリカでは雲泥の差。
日本はゴミのような教育で、人材を腐らせ続けている。
今、この瞬間にも。
そう思うと怒りがわいてくる。

やっぱりこの講義も、英語の練習になったと思う。
英語でプレゼンテーションする練習にはなった。
あと、アメリカ女をどう扱うべきかの練習にもなった。
日本女と一番違うのは、本当に自分に正直なこと。
アメリカ人の男女の間では、それでもなんかいざこざあるらしいが、日本人から見たら感情を丸裸同然にしてるのと同じに見える。
いいなぁアメリカ女。

最後にいた寮では、そういえばイスラム女性とも仲良くなった。
時々一緒に勉強するような仲。
やっぱ日本人だけだぞ。
いっくら話しかけても、うんともすんとも言わないのなんて。
本当に自分に自信がないか、そもそも自分の内容がないんだなぁ。
まあ、自分の国を出て違う国の大学院で勉強しようなんていう人間の平均は、平均的日本人とはそもそも大きくかけ離れているのかもしれないけれど。

あとは元米軍の隻眼のアメリカ人ともちょっと仲良くなった。
時々会ったら話すぐらい。
ついでに部屋に遊びに行くぐらいの仲になれればよかったんだけどな。
まあ、割と仲良し。

受付に香港出身の中国女がいて、その子にちょっかい出したりしたな。
部屋に遊びに行っていい?とか。
彼氏居るとか言ってたけど、本当かどうか。
まあ、結局はなんにもならないでお別れか。

こういう経験を繰り返して、会ったばっかりの女の肩に触れるぐらいにはなった。
本当に、女関係だけは、もっとなんとかならんもんだったかって思う。

と思ったので国際線に乗り換えるためにアメリカ国内線に乗ったら隣の席にのったアメリカ女が美人だったからちょっかいかけまくる。
2時間ぐらい褒めまくって世間話しながらあちこち触りまくって、最終的には腋やら尻やらエロく撫で回すところまではいった。
アメリカって本当にいい国ね。
キスかおっぱいぐらい行きたかったもんだけど。
それはさすがに無理だった。
僕も軟派な日本人になったものだ。

こうしてみると、留学当初に立てた目標は、やっぱり7割ぐらい叶ったかな、と思う。
3年でノーベル賞級の発見をするっていうのは、実際に発見できたし。
プレイボーイにはなれなかったけど、女慣れはした。
すくなくとも日本で受けたトラウマは消えたかな。
本当に日本では女関係でひどい目に遭った。
英語はネイティブ並みとは言わないけれど、非ネイティブとしては十分なレベルに達したと思う。
英語ができるのが自慢になるという意識はすっかり消えうせた。
単なるコミュニケーションツールなわけで、携帯にアドレスたくさん登録してありますって自慢と同じレベルだと思う。
そんなもんだと思うんだが。
観光旅行は、ちょっとできたな。
ニューヨークの方にも行ってみたかったけれど。
それはまた今度、きっと機会がある。
銃を撃つ目標は達成できなかった。
せっかくアメリカに来たんだから銃ぐらいぶっぱなしたかったんだけど。
どうにも機会がなくて。
そして自分から調べる余裕もなくて。

そんなわけでアメリカ留学の記録はこれで終わり。
また日記をつけ始めるかもしれないけれど、それはまた別の物語。

ついでに。
この日記に書いてある情報だけを使って、僕個人を特定することは十分可能。
現在の人間にとっても可能なのだから、将来的に誕生する超AIにとっては名前の書いてある落し物の落とし主を特定するのと同じぐらい簡単だろう。
そしておそらく、歴史的な考察と、デバガメ根性から、過去にネットに上がった文章の著者を特定する遊びが流行るだろうと思う。
つまり、このブログの著者として僕が特定される日は必ず来るということ。
それを前もって理解しているのにもかかわらず、こうやって情報を放置してあるのだということを、たまたまこのブログを分析した君に言い訳しておきたいと思う。
その勇気と誇りを、ちょっとでいいから理解して、いろいろと斟酌して欲しい。

そしてちょっとした過去のいたずらを暴かれてしまった僕へ。
僕は、こんな風に、若かった。

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2010.08.26 Thu l 自分のための日記 l COM(0) TB(0) l top ▲

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